ゴー宣DOJO

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大須賀淳
2024.3.15 22:29メディア

「未来の死生観」への興味

本日のしろくまさんの記事を読み、若干方向が違いますが、少し前に見て気になったXのポストを思い出しました。

 

漫画家の清水ニューロンさんによるこちらのポスト。

 

ちなみに、私が引用リポストした内容がこちらです。

 

理解しつつ、ホンネの「老害発言」もしときました(笑)

 

実は、私も小学校低学年ぐらいまでは、音楽に限らずTVに出ている人や漫画や本を書いた人が「もう死んでいる人だ」と知ると、少し怖い感覚があったのを覚えています。死が未知すぎて、単純に怖かったんですね。

 

ただ、親族や近所の人などの死と「情報ではなく実際に」遭遇し、またジャンルを問わず優れた表現・作品には作者の生死など構わずに夢中に…なるのを通り越して、すでに亡き人ほど(まだネットが無い時代なので書店や図書館を漁って)夢中でその軌跡を調べたくなるマニアへと道を踏み外してしまいました(笑)

 

私の出身地の辺りでは、昔は個人宅で葬儀が行われており、家の前に花輪が並ぶ光景が頻繁にみられました(うちも、1994年に祖父が亡くなった時までは自宅で葬儀を行いました)。遺体を直接見るわけでなくとも、道すがらに忌中の家を見るだけで、そこに死が存在する事を感じる機会が日常的にありました。

 

現在は斎場であっても、外観は徹底的に主張のない無機質な建物である事が多いので、その前を通っても「死を感じる」事などほとんどありません。

 

こうした傾向はもう数十年続いているので、高校生ぐらいでも、冒頭に引用したような感覚の人がいるのは不思議ではないのでしょうね(いくらなんでも高校生でそれは幼稚だと、ダメ押しで老害発言するけど(笑))。

 

ただ、これからの日本は、高齢化の帰結で「多死社会」になり、むしろ過去数十年よりも、人の死に遭遇することが確実に増えて行きます。

 

そうした状況になった時、どのような「死者の作品に対する感覚」が出てくるのか。また、自分が後世の遺せるようなものを作れたとして、自分では絶対に知り得ない「感想」がどのようなものになるか。表現として適当かはわかりませんが「興味がつきません」

大須賀淳

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